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- DAT番号
- 389
- 曲・解説順番号
- 1
- 曲名・解説タイトルよみ
- エホンタイコウキ(ベツナダイ:エゴウタイコウキ)
- 曲名・解説タイトル:副題
- 十日の段(尼ヶ崎の段)
- 曲名・解説タイトルよみ:副題
- トオカノダン(アマガサキノダン)
- 作曲者、作詞者
- 近松柳、近松湖水軒、近松千葉軒
- 作曲者、作詞者よみ
- チカマツヤナギ、チカマツコスイケン、チカマツセンヨウケン
- 注記2
- [オープニング音楽:笛と太鼓の合奏] 解説:今からおよそ170年程前の江戸中期の寛政年間に、豊臣秀吉の一代記をつづった読み本で、広く人々に親しまれた「絵本太閤記」(などから脚色した作品。)光秀の反逆、秀吉の高松攻めを近松柳ら三人が脚色したもの。事件は今からおよそ380年ほど遡った天正10年6月のことで、一日から十三日までの出来事として、1日を1段に日をおって13段として、発端を添えて組み立てられている大作。したがってそれぞれ「一日の段」、「二日の段」という呼び方になっている。読み本の「絵本太閤記」の他に、浄瑠璃が歌舞伎の隆盛に押された時代によく書かれた太閤記もの、例えば近松門左衛門作の「本朝三国志」や竹田出雲作「出世奴幼物語」(しゅっせやっこおさなものがたり)などにも影響されている。歌舞伎では寛政12年大坂で「絵合太閤記」(えごうたいこうき)として初演し、その後、六段目がたまに出されるほか、十段目、通称“太十”がしばしば上演される。一方、文楽では初演以後、十段目、七段目までがよく出されたが、現在では光秀中心の「一日の段(二条城配膳)」「二日の段(本能寺)」「六日の段(妙心寺)」「十日の段(尼ヶ崎)」がよく上演される。尼ヶ崎の段は俗に“太十”(たいじゅう)と呼ばれるほど有名で、(物語の)中心はこの段にあり、義太夫の語り物としても、人形としても代表的な時代狂言。またこの作品は、光秀ものとしては、(四世)鶴屋南北の「時桔梗出世請状」(ときもききょうしゅっせのうけじょう)と双璧をなしている。「尼ヶ崎の段」の内容は、主君を討った光秀の非道を憎んで、母の皐は一人尼ヶ崎のかたほとりに隠居所をかまえている。光秀の妻、操は一子十次郎の許嫁、初菊を伴って母親のご機嫌伺いに来る。そこへ十次郎も初陣の許しを求めにやって来る。皐の機嫌もなおって、初菊と祝言をしてから門出と、操を促して用意に取り掛かる。一人残された十次郎は、初陣に討死にする覚悟を決めた暇乞いであることを少しも知らぬ母親たちの様子に、18年にわたる慈愛と先立つ不幸を心に詫び、初菊には他所へ縁付いてくれと願う。それをひとまで立ち聞いた初菊は、泣きながら転び出て、夫の膝に取り付くが、武家の娘のたしなみと諭され、泣く泣く十次郎が鎧を着けるのを手伝う。皐は孫の天晴れな武者ぶりを見て、祝言と初陣の一緒の杯と喜ぶ。やがて風の間に間に聞こえてくる攻め太鼓の音に、十次郎は戦場へと駆けて行く。討死にの覚悟を見抜いていた祖母も母も、涙ながらに十次郎の姿を見送る。そこへ先ほど一夜の宿を乞うた旅僧が、風呂が沸いたことを知らせ、三人は仏間と湯殿へ退く。そこへ箕傘に身を包んだ光秀が現れ、旅の僧を真柴久吉とにらんで、竹やりを湯殿へ突っ込むが、以外にも悲鳴を上げたのは母の皐で、主君を害した逆賊の武智一類がこうなるのは理の当然と、身代わりとなって刺され、光秀を諌める。おりから傷ついた十次郎が帰り、見方の敗戦を知らせて、息絶える。さすがの光秀も母と子の悲惨な有様に大きく慟哭する。こうした間にも周囲は敵方に囲まれ、そこへ以前の旅の僧の姿とはうって変わった陣羽織姿の久吉が現れ、天王山での決戦を約束して別れる。中でも光秀が藪の中から姿を現す、‘夕顔棚の彼方より現れ出でたる武智光秀’という文句は、あまりにも有名。また最初の十次郎の出陣を悲しむ初菊のさわり、それに光秀が誤って母の皐を竹やりで刺したのを嘆く妻の操の口説、十次郎が戦場から帰り、負け戦を語る物語など、それぞれにリズミカルな美しさで展開される。
- 分類番号
- koizumi101_義太夫、古浄瑠璃、説経、古曲(荻江節、一中節・河東節・宮薗節)
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- 録音年
- 1971年1月